実名と匿名とコミュニケーションと信頼と。
以前、匿名であること、実名であること。という記事を書いたのですが、最近また盛り上がっているみたいなのでちょっぴり思ったことを書いてみます。
ululunさんが煩悩是道場 - 有名ではない多くの人に「津村ルール」は適用出来ないで、
大切なのは「匿名か、実名か」ではなく「(その書き込みに)コミュニケーションの意思を感じるか、否か」であり、それはウエブログを運営する人が決めて良い事ではないかと私は思うのです。とかかれてますが、これがすべてだと思います。でも、実名・匿名論ってコミュニケーションの意思を感じてやっとスタート地点じゃないのかな?
そこで、実名でコメントをしようと考えたとしても、ekken♂:そもそも他人のブログのコメント欄では誰もが「匿名」かもしれないで言われているとおり、通常のブログでは名前とメールアドレスやホームページを騙ることも可能なので実名なんて無理。認証型のはてなだって、分かることは「コメントした人がそのはてなのアカウントで作成しているダイアリーやブックマークと関連付けができること」と「複数回コメントした際にそのコメントがすべて同一人物によってコメントされた」ということくらいでしょう。たとえ、はてなダイアリーで「私の名前は佐藤一郎です」などと書かれていたら、この人は実名だ!と言い切れます?私にはちょっと信じられません。
だいたい、ちょっと批判されたからって実名だ匿名だ言うのってなんかちっちゃくね?いつも読んでいるブログの人がコメントで批判を受けて、匿名だから無視とか言い出したら、ちょっと!ちょっとちょっと~!ってザ・たっちばりのツッコミ入れちゃいますよ。もちろんその時の状況にもよるけれど、基本的に中立で自分が正しいと思っていることを私は主張したいので、すべての意見に耳を傾けるべきとか言っちゃいそう。相手が得体も知れないと会話できないなんて、それなんて肩書き社会?とかなっちゃいますよ。「え~い、 静まれ、静まれ~い、ここにおはすお方をどなたと心得る。さきの副将軍、水戸光圀侯に あらせられるぞ。皆の者ぉ、図が高い!!控え~、ひかえおろう!!」とかいう時代はもう終わりですよー?
でもね、津村ルールもわからなくもないの。芸能人が2ちゃんねる嫌いっていうのと同じ。相手はほとんどリスクを負わずに、自分に不利なことばかり書かれちゃうってのは嫌だもの。有名人ってのは人気商売である部分もあるだろうから、匿名で書き込みできることによって全体にもたらす大きな価値よりも、自分の受ける被害があるという事実だけで受け入れられないものだろうし。批判するなら同じ位置に立てと言いたくなる気持ちもわかるかな。でも、やっぱり実名で書いても意味はない。実名って、戸籍上の名前のことだよね?でも、そんなのは役所に行かないと証明できないし、もし証明できても何にも意味ないように思う。だって、これは私とアナタのコミュニケーションなんだから。
そう考えると、実名か匿名かの前に考えることがあるよね。信頼に足る人かどうか、それがすべてだと思う。こう書いちゃうと、ululunさんの言っていたことに戻っちゃうんだけどね。結局は、実名・匿名論なんて信頼に足る人かどうかの判断基準のひとつにしか過ぎないってこと。例えば、ちょっと前の私は加野瀬未友さんと言われても誰?って思ったけど、ARTIFACTの人と言われればあの人かー!って信頼していたと思う(ご本人様、ごめんなさい)。
私にとって、ネット上における実名(=信頼に足る相手)って意外とアバウト。先述した通り、本名知らなくてもサイト知ってれば十分に信頼するし、どんなに有名なサイト持ってても自分が知らないサイトの人だったら信頼とまではいかないだろうし。だから、ネット上における実名とは相手を認識できるかどうかであって、実生活における実名とは全く違う使い方だと思うのです。なおかつ、相手が誰かを認識しなくても可能なのがネット上のコミュニケーションだと思うし。以前も書いたけど、重要なことは「誰が書いたか」ではなく「何を書いたか」だと思ってる。相手が誰なのかは書いたことに対する付加情報でしかないし、そうとでも割り切っておかないと情報に騙されちゃうからね。
ところで、匿名・実名論の本題って、批判されたときにどのような相手だったら議論するに値するか、でいいのかな?
んー、なんか、掲示板でいう“荒らし”に関する議論と同じような議論になりそう…。荒らしの認識の差があって、例えば私にとって荒らしとは、言葉ではなく文字の羅列や、会話にならない単語の羅列、多重書き込み等であり、まとめるとコミュニケーションの不成立のこと。しかし、コミュニケーションが取れない一方的な完全否定でも、しっかりと理由付けられた文章ならば私は荒らしとは思わないときもあるし。それはなぜかと言われたら、私の「まなめ」という存在の弱さであって、失うものが少ないということ。確かに私は落ち込むし、ネットでの評価が下がったとしても、自分の社会活動にはほとんど影響がないということ。まぁ、まなめって名前は19年も使ってるから、私の周囲の人はほとんど認知できる分、その辺のハンドルネーム使用者よりはヘコむと思う。それでも、多くの人に知られた有名人ほどではない。
だから、この議論は「批判された側の立場」に影響してくると思う。そう考えると、ハンドルネームでサイト運営をしているという立場にある私は、「(その書き込みに)コミュニケーションの意思を感じるか、否か」というululunさんの判断基準に同意し、誰もが知っている有名人には理解されないのも仕方ないと納得しなくてはならないんじゃないかな?
そんな感じで何も否定せず何も意見せず終了。
おまけ。匿名側である私としては、受け手より「ネット上で批判する際に、相手が自分を認知してくれないと思われる場合、どうしたら自分の意見を相手に受け入れてもらえ、議論することができるだろうか。」という議題こそ考えるべきだと思う。ま、ありきたりな結論になるのがミエミエなので書かないけど。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント