限界の上での戦いが一番おもしろい
不倒城: レトロゲーム万里を往く その62 格ゲー「衰退」を考える。を読んで。
たまにはゲームの話をしようと思う。私は格闘ゲームは苦手だ。苦手である最大の理由はコマンドが入らないことだ。家庭用ゲーム世代だからなのか、どうもゲーセンのコントローラではまっすぐ歩くこともできず、ジャンプしたりしゃがんだりと斜めに入ってばかりで、技が出るだけで満足という初心者クラスだ。当然、ゲーセンでやるにも誰も対戦に入ってこないだろうと周囲を確認してからやらないと瞬殺されてしまうので、ひっそりこっそりプレイしていた記憶がある。
そんな私が会社に入ってから格ゲーに目覚めた。同人に多少詳しければ誰でも知っているであろう渡辺製作所の「The Queen of Heart」(MAD)。当時は、職場の人と毎日QoHの話ばかりしていたし、週に一度は皆で集まって徹夜で対戦をやっていた。この“やり込み”の過程を経ることで、キャラを使いこなせるようになってからが本当の格ゲーの始まりだったと思う。キャラを手足のように扱えるようになり、コンボもキャラ特性などすべて頭に入った上での対戦時の読み合い・探りあい、それこそが格ゲーの一番おもしろい部分だと思っている。
マンガ☆ライフの水音さんが、「ジョジョの奇妙な冒険」に対してこんなことを言っている。
力で劣ろうとも、能力者バトルに置いて力など意味はない。全ては「自分を知っている事」に集約される。自分を知っているからこそ、自分が最大限戦える場所へ誘導する。相手を自分のフィールドに引きずり込むこと。能力者バトルとは考え無しで成功するものではないのだ。ジョジョという物語はそういった自己分析という観念がよく現れている。このジョジョの説明のくだりは名文なのですべて引用したいほどだが、ここにすべてが詰まっていると思う。自分の特性を知り尽くして、そこから先をどのように展開していくか。それを考え実行していくところに、熱いものを感じる。格闘ゲームも同じで、キャラを使いこなした上での戦いが熱いのだ。
Lingua furanca. 水音図書館の三冊 / 水音
ときどき、「今のゲームよりファミコンの方がおもしろかった」なんて言葉を耳にすることがあるけれど、これも同じに説明がつくだろう。ファミコンの操作は非常に簡単で、どんなゲームでもキャラを使いこなすまでが非常に容易だった。そのため、さほどやり込まなくても“その先の戦い”に辿りつけたのだ。しかし、今はキャラを使いこなすまでにかなりのやり込みが必要となってしまい、そこには金や時間が不可欠な存在になってしまったのである。新規ユーザがなかなか入っていけないわけである。
私自身は、三国志大戦の様な実力が(ある程度)近い者同士のマッチング方式なんか、一つの回答になり得るんじゃないかとは思う。マリオカートDSのwi-fi対戦でもそうだったけれど、実力の近い人を選んでくれるシステムは非常に良いと思う。やはり、実力均衡した人との対戦の方が熱いに決まっている。そうなると、正面に座った人と対戦する対戦台という方式も変わっていくのだろうか。実力均衡した人と戦えるということで、キャラを使いこなすまでに時間のかかる格ゲーでは「どちらがキャラを使いこなせるかの戦い」と「キャラを使いこなす人同士の読み合い」という二つの世界が生まれるだろう。
問題は対戦相手が目の前にいないということだけか。非常に大きな問題である。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
こんにちは。不倒城のしんざきです。
>ファミコンの操作は非常に簡単で、どんなゲームでもキャラを使いこなすまでが非常に容易だった。そのため、さほどやり込まなくても“その先の戦い”に辿りつけたのだ。
レトロゲームブログでありながら、ここに思い当たりませんでした。不覚です。
おそらく、限界上での戦いがつきつめられた格闘ゲームの元祖は「キン肉マン マッスルタッグマッチ」だったりするんじゃないかと。あれ、突き詰めてプレイしてみるとかなり熱いらしいです。
実力が均衡した状態での格ゲーは今でも十分面白いですよね。だからこそ一部のゲーセンに人が集中するんだろうけど。
投稿: しんざき | 2007.05.05 20:18
「キン肉マン マッスルタッグマッチ」は私も持っていました。言われてみればやり込み要素ありますね。
ブロッケンマン>テリーマン>ウォーズマン・バッファローマン>(超えられない壁)>その他、だったような。あしゅらまん使うの大好きでしたけど、一回バスター決めたら満足でしたねー。
当時の主な対戦相手だった弟がやり込むタイプでなかったので、どうも実力均衡した相手に恵まれなかったのが残念でした。
投稿: まなめ | 2007.05.05 21:22