読者が見える人、読者に見える人
知り合いの日記を越えるコンテンツはないと思う。
ブログを書いている人にとってどんな人が読んでいるんだろうって一度は考えることだろう。読者が見えていると安心し、読者が見えなくなると不安になる。ターゲットを見失うってことになるのかな。その面から考えると、スターやはてブはIDが見えるので、はてなはブロガーを安心させるサービスとして非常に役立っていると思う。
しっかりとターゲティングできている人は「どんな人に読んで欲しいか」を考え、「読んで欲しい人にどのように届けたら良いか」を計算しているのだろうけれど、私のようなコンテンツを作ることの楽しさの方が勝ってしまう素人には、そこまで正しい方向付けはしていない。せいぜいたまにしか更新しないブログを見てもらうために、毎日ニュースサイトを更新するくらいだ。
しかし、読んでくれる人についてこう考える人は多いだろうが、逆に、読まれる人に対して自分がどのように見えているかを考える人は少ない。これは日本人の特徴なのか、見られているってだけで嫌がる人も少なくなく、そういう人に限って相手をじろじろ見ようとする人だったりする。我々は見られ慣れていないのだ。
例えば、西尾維新はサイン会をやらない。単に本人が表に出てしまうと作品イメージが壊れるということもあるかもしれない。でも、「売れっ子だからサイン会を開くまでもないよね」という考えを持つ人はいると思う。サイン会をすると売り上げをテコ入れできるのだと無意識に理解しているからだろう。読者から作者を見えるようにする。近くなることでその作品をもっと身近に感じる。それは、作品を知り合いの日記とかその延長線上に一歩近づける行為なのかなって。
芸能人の人気があるのは、芸能人として人気を集める程度に才能を持っていることもあるけれど、それ以上に人々の共有知であり、我々もある程度知るところの存在であるからだ。インターネットの最大の利点は、互いにコミュニケーションができることだけれど、コミュニケーションを取らずしてテレビ等で見られている人の強さには叶わない。わざわざコミュニケーションを取る必要がないのだ。参加しなくても楽しめる敷居の低さに嫉妬してしまう。これを超えるのは常日頃会う人や、良く話す人の発信するものしかないだろう。
しかし、そんなのはウェブの中ではほんの一部にすぎない。
ほとんどの情報は見えない人の情報が人気になっている。アルファブロガーだってかつては見えなかった人だ。むしろ、人気と呼ばれる中に知っている人の情報があがったら嬉しくてつい誰かに言いたくなるようなものだろう。勝手に、発信された情報からその人となりを想像し、積み重ねることでだんだんと鮮明になっていくのである。
読者に見える人になれとは言わないが、読者は文章を通して、だんだんとブロガー自身を見えるようになっていると思う。ただ、誰もが一から順に読んでくれるわけでもないので、自分が見えるエントリは必要だと思うようになってきた。私らしさを感じる文章ってなんだろう?
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント